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愛の工学「霊性訓練と生活訓練の指針」

5.二種類の御ことば(教える御言葉、啓示の御ことば)教育と訓練

 聖書には、二種類の御ことばが出てきます。旧約時代には律法と預言者(ルカ16:29、使徒13:15)、新約時代には教師と預言者すなわち教える御ことばと啓示のことばです(使徒3:1)。

 旧約時代にあって、祭司長たちは律法を教え、預言者は民たちの行動を直し、正す為、神が立てた主の使いであった(マラキ2:7、使徒3:23)。

 これは、人が意識的な存在であり、ことばの供給を通しての思考の変化、つまり教訓、戒めが必ず必要であることを、明らかに示してくれます。何回も繰り返して、話していることですが、人は、意識的な存在であり、神、天使、人からことばを通して、思考を供給されて、意識の変化が成されます(黙示録3:4〜6、申命記6:7〜9、ヨブ38:1、42:1〜3、黙示録1:1)。敵対するサタンとか、この世から反対になる考えも供給されるために、いつも対立する状態でいるようになります。故に人は外から入ってくることばではなく、自身が行なうことにより受けた意識(体験)で自分をつくるのです。

 人の意識の中で、一番確かな意識は自身が直接体験することである。そのような体験意識を聖書では、"知る"と話しているのです。聖書で語っている知識(意識)は、習ったこと(思考)ではなく、自身が直接行動して体験した自己意識を言っています。

 

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1:7)

 

 それ故、エホバを敬うということは、ただことばだけでなく生活全体の行いであり、神の御ことばを体験して神的な意識を持つようになるのです。今日の根本的な問題が即ちここにあります。

 現代の教会は行い重視の教会ではない。教育して、学ばせ、良い学院か劇場のように教会を治めています。牧師は説教だけして、教会員は聞くだけで、行いは別である。

 つまり世俗的な娯楽のプログラムなどで満たされているのです。聖書研究に礼拝を捧げても行いが違っているので、彼らの意識は変化されないのです。時間が経つにつれて、この世の意識が高くなって悪魔の通路になります。神の国は「ことば」にあるのでない。使徒パウロは教会員たちに知恵で勧められた話をしたのではなく、聖霊の現れと力によって教会員たちが神を直接体験するようにしたのです。

 初代教会では、今日の教会のように、文化的、人間的な行事は全然ありませんでした。使徒の働きでの話はほとんど、御ことばを伝え、御ことばによって行動し、お祈りしながら、御霊の導きに従って歩んだことが書かれています。ですから、教会は学校のように教え、訓練の場であり、学んだこと、聞いたことをおこなうように訓戒すべきです。

 もっと重要なことは、その訓戒が生活全体にあって実践されることです。教会内で、プログラムとして行動し、家とか職場では、異なった行動をしたなら、それは2つの意識、二心を持っていることになります(ヤコブ1:8)。それは正しい信仰ではありません。その歩みも安定を欠いた人になります(ヤコブ1:6〜8)。パウロが主張したように、信仰とは、御ことばを聞くことにより始まりますが、ヤコブが主張したように『行い』が伴って、初めて生きて働く信仰になるのです(ローマ10:17、ヤコブ2:26)。

 今日、教会にあっては、教会員たちの"行い"を変化させる事をおろそかにして、建物とか教会員の人数を多くすることに熱心です。教会員たちの行いが変化しない限り、建物の坪数とか、教会員の数がいかに多くなっても、神の御ことばとは何ら関係ありません。それは、宗教事業であり、宗教行事であります。

 そういうわけで、教会がこの世の悪魔に打ち勝つのではなく、この世と悪魔の下手人の役割をしているのです。今日にあって教会が多く、教会員の数が多くても、社会は益々悪くなっていく理由がつまり教会の無能にあるのです。

 まことに今は、神の僕たちと信実な聖徒たちが罪から離れ、立ち上がる時です。教会は御言葉の働き手なる使徒(牧師)がまず悔い改め、悔い改めさせる預言者の上に建てられるべきです。

 

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2:20〜22)

 

 現代こそ、まことの預言者、エリヤ、イザヤ、ホセア、ミカ、ヨハネのような預言者が必要な時代である。

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:34 | - | - | - |

愛の工学「霊性訓練と生活訓練の指針」

 人の口は一つですが、耳は二つあります。口で一回話すことが、自分の内側には、二重の壁をつくることになります。つまり、2回聞くことになります。ですから、人はことばで霊の世界を開くこともあるし、閉じることもあるのです。

   わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(マタイ16:19)

 というわけで、信仰は御ことばを聞く事により始まりますが、信仰による祈りを通してだけ思いが統一するようになります。また、祈りは、この世の運動を断ち切り、御ことばに従って運動させ、生活構造を変化させます。思考と運動力の変化なくしては、生活の変化は不可能であり、特に祈りがなかったなら、不可能です(ヤコブ5:15)。
 ペテロは、主の御前で絶対に主を否認しないと、誓いました。しかし、主はペテロの事情(内なる人)を知っておられたので、一緒に祈りましょうと仰せられました。ペテロは望み(思考)は持っていましたが、それを体の運動力に変化させる祈りが必要であったのです(マタイ26:31〜41)。
 主の弟子達も3年の間、主に従って、御言葉を習ってはいましたが、祈りがなかったゆえにいつも行いにおいて、失敗していました。彼らは主が復活されてから、マルコの家の屋上の間に集まり、みな心を合わせて祈りに専念していました。そのことが、結局、使徒の働きの時代を準備したのです。
 使徒の働きには、御ことばー祈りー運動(形体化)の原理が繰り返されています(使徒の働き1:14、2:42、3:1、4:31)。
 今日の教会の問題点は、御ことばだけ教え、祈りと霊的な運動力がないということです。運動力がないので、代りに世俗的な順序と娯楽などで、霊的な運動力の代りをしているのです。
 御ことばは何時も教えられ、思いと希望は持っていますが、祈りがないので、この世の行動を続け、この世の体験(意識)が積まれ、結局は、その願望まで消されてしまいます。故に見えるところは敬虔であっても、その実は形式だけ維持しているのです(競謄皀3:5)。
 お祈りをしていると言っても、この世の問題を持って祈るとか、自己の願いだけ成就するように求める情欲的な祈りをして、時間を費やすことが多いのです(ヤコブ4:3)。まことの祈りは自分思考ではなく、主の御旨、天の御ことばが地に成るように求め、自身の体(運動力)を通じて成らしてくださいと、献身の祈りになることです(ローマ12:1)。
 近頃、伝道ブームが起こって、いろいろな方法により人々が、教会に集まっています。しかし、お祈りがないので、教会内ではこの世の事件をもって教会を混乱させています。たとえていうと、肉的な欲望を育て、グループを作って争うとか、個人的な不満を持ち、教会を離れるようになります。
 このような問題の根本的な解決は、祈る教会を造ることです。祈りがなかったら、教会を始めた「使徒の働き」での働きはなかったでしょう。
 普通、開拓教会の牧会者たちの証しを聞いて見ると、「始めは信徒が40〜50名集まるのですが、ある期間を経ると、みんな離れてしまった。」とよく証しされます。それは、牧会者が信徒達の思考と霊的な運動力により、再構成していなかったからなのです。信徒たちに、御言葉を教え、思考を整え、祈るように指導して、いないからなのです。
 イエスの時代にも、自己の利益だけを願って主に従っていった群れは、その数がどんなに多くても、彼らの教会を建てることはできなかったのです。始めから、御ことばを通して教育され、たしなめられて、全くお祈りに専念した弟子たちによって、使徒の時代が開いたのです(マタイ16:16、17)。

この人たちは、婦人たちやイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒の働き1:14)

そして、彼らは使徒たちの教えを堅くまもり、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(使徒2:42〜47)


次回に続く・・・
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:58 | - | - | - |

愛の工学「霊性訓練と生活訓練の指針」

4.祈りの原理(意識と運動力の再構成)
 前にも話しましたように、天は霊で、地はエネルギー(運動力)で形体をなしています。人は天と地、つまり霊と物質をつなげる輪(クサリ)として存在します。人の体は天の霊的な命を、地にある物質の運動力に変化させる動力伝達装置(トランスミッション)みたいなものです。
 このように、人の内なる人は霊を受ける器であり、御霊と言葉を通してつながり、言葉により意識し、新しい方向を理解し、人格的な決断を下し、思いをおこさせ、物質の構造を変化させるのです。
 人は相手の話を聞く時、その相手の態度に応じて2段階で受け入れます。まず、人が相手を愛する時、相手の像(イメージ)が私たちの中に入ってくるので、ただちに意識の変化がおこります。その意識を自己の体で反応し形体化されます。これが即ち愛です。これは信仰にもいえます。

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)

 人が信仰で行動しようとする時に問題が生じます。愛する相手(信仰)によって受けた意識を行動化する時、抵抗する意識があるのです。それが古い人、つまり御ことばを聞く前の私自身がこの世に従って行動していた時の内に残っているこの世での体験、即ちこの世の意識です。
 この世の意識は、自己意識と形体化つまりこの世にある環境構造をもっているのです。
 人の意識ー運動ー構造は一つの人格体であるが故に、1度構成されたら、永遠に持続されます。これが肉です。この肉は神と敵対関係にあり、自己の構造だけを固執します。ここに聖徒における霊と肉の格闘がおきるのです。

肉の願うことは、御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17)

 肉と悪は、どれもが"意識ー運動ー形体"の天と地の構造をもっていますので、永遠に持続しようとする人格的な性質を持っています。ですから、一人の中に二種の人格、天と地の構造が対決するようになります。この二つは、お互いに拒み、排斥するようになります。これが二つの心です。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。(ヤコブ1:6、7)

 この二つの心をそのままにしておくと、私たちの中で葛藤が始まります。この二つの心の中で、一つの心だけを保ち、残りの心は処理すべきです。このように私たちの心の内にあって、二つの人格(心)が相対した時、御ことばは重要な役割をします。
 たとえば、或る物を見て、これが、あれかと判断がつかない時、どちらを選択するかと迷い始ります。その時どちらのことばを聞くかによって、一方を選択します。迷った時、たやすく解決する方法があります。一方の話を聞いて、思考を整えることである。そうすれば、自然に考えがまとまります。
 ですから、人は何かの問題が生じた時、一人で心配するよりは誰かにと相談することにより、決断がしやすくなります。人の"内側"には、この世の考えと神に対する思いが対立しています。ですから、肉の思いは御霊の思いに逆らい、御霊の思いは肉の思いに対立するのです。
 私たちは、罪を告白することにより、思いにおいて、神の思いが勝つように祈ることです。そして、罪を告白することにより、すでに自身の中で、王座をしめているこの世の思考を亡き者にするのです。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(汽茱魯1:9)

 祈りは、目をつぶって、まずこの世のエネルギー(運動力)を遮断し、環境からくる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を断ち切ります。祈りは五感を根拠としているこの世の意識を閉じるのです。
 人のことば(祈り)は意識の壁を打ち破ります。私自身から抜け出し、壁をこじ開け、外側にある意識(人の言葉)を受けるようにするのです。人のことばは人の人生に決定的な役割をします。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。(マタイ12:36〜37)

次回に続く・・・
   
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 07:31 | - | - | - |

愛の工学「霊性訓練と生活訓練の指針」

3、愛(意識)の連結の法則
 天と地は、意識の段階つまり意識の梯子によって段階ができています。人は各自、意識の水準によって行動します。その意識の形体を着て、享有し体験します。もし、金銭のことばかり考えている人は、水準の低い無意識(物質意識)の段階で行動しますので、その人生が物質段階の形体を着ます。これが罪であり、土に戻る死であります。
 本能(動物意識)で行動したら、その行動が動物のような形体になるので、動物の様、つまり弱肉強食の現象が起こります。自分より弱い者を餌食にします。しかし、自分も自分より強い者の餌食になるのです(ローマ1:26〜27)。
 というわけで、人が問題解決する時は、自分の意識の範囲内でしてはいけません。上から供給される御ことばによって行うことにより、自己の意識の範囲から脱出して、新しい形体を着るとき(服従、悔い改め)、問題は解決します。つまり、救いに至るのです(マタイ3:5〜9)。
 すべての救いは、神の御ことば(意識)から来るのであって、人がその御言葉(意識の伝える通路)に従うとき、新しい形体が構成されるのです。ですから、神の御ことばを受け、従う人(信じる人)には、不可能はないということです。

神のとって不可能なことは、一つもありません。(ルカ1:37)
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)


 ここにあって、一つ強調すべき点は、もっと高い意識は必ず神が立てられた指導者、僕、働き手、即ち、油注がれた者を通してくるという事実です(へブル13:17)。神が立てられた僕たちは、神の訓練を通して御言葉の通路が開かれた人たちです。神はイスラエルを呼ばれる前に、まずモーセを呼んで訓練しました。主も教会を建てる前に使徒(弟子)達を呼ばれて、御ことばの僕として、準備されたのです。
 この世には、神の使者(僕)達と、悪魔の使者(僕)たちが、互いに御言葉により、食い尽くすべき者を探し求めながら、歩き回っています(競灰螢鵐11:2、汽撻謄5:8)。この二つの間で、人がどちらの言葉に吸収されたかにより、神の国の形体化と地獄の形体化がなされるのです。
 私たちがもっと高い意識の指導者(権威者)に従順に従う時、自己の意識の範囲から脱出できるのです。それが信仰です。その時、私たちには、自己の内と周囲から非難の声が聞こえてきます。これが、つまり聖徒が受けなければならない迫害(圧迫)です(マタイ5:11、競謄皀3:12)。主のくびきでもあります(マタイ11:29、30)。従って、救いは必ず御言葉を通して成ります。御ことばと行いにより、信仰が結びつけられるべきです(へブル4:2)。必ず、聖徒は内なる自分と周囲から迫害(抑圧)されるようになっています。

そして、あなたがたに向かって子供に対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです。」(へブル12:5〜8)

 御言葉は、復活された主が指名して送られた使者(使徒、牧師、教師、預言者)を通して、地上の聖徒たちと連なるようになっています(エペソ4:11)。これが教会です。教会がこの世に勝ち、サタンにも打ち勝つのです(汽茱魯5:4〜6)。
 結局、信仰の試練とは、私たちがどれくらい神を愛するか?という愛の試練であるのです。

信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くす事のできない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは信仰の結果である。たましいの救いを得ているからです。(汽撻謄1:7〜9)

次回に続く・・・
   
  
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:52 | - | - | - |

愛の工学「霊性訓練と生活訓練の指針」

1、天と地の法則
 天と地の法則とは、意識(霊)ー形体化(物質)の法則である。この世のすべての存在は、どんなものでも必ず霊の世界から始まっています。この霊の世界の背後にある意識の世界を開くのが人間の学問であり、知識である。
 近頃、自然科学を通して分かるように、すべての現象(見えるもの)の背後には、見えない意識(みことば)の世界がはっきりと見えます。このような意識ー現象の万物の法則を解明しながら、人類は数千年間も問題を解明し続けました。人間のすべての問題(物理的、社会的、生理的)は、背後にある意識の世界が開かれる程度によって解決されてきました。また、人々にそれを享受する特権が与えられたのです(ローマ1:20、へブル11:3、ヨハネ1:3)。
 この天の世界、万物の背後にある意識の世界、霊的世界は、創造の神とキリストを信じる信仰により、開かれます。神は天と地を創造され、統べ治められています。神は私たちを愛され、豊かに恵みを与えてくださいます。また、神は私たちの状態を憐れみをもって見られ、私たちを贖うために探してこられる神のみ子キリストを私たちに与えてくださいました。その御子キリストを信じる信仰により開かれます。
 また、信じて実践する時、体験を通して神意識の形体化が継続されるのです。ですから、神を信じることは、プログラムではなく、知識でもない、生きておられる神と一緒に同行する実際の生活です(創世記5:24)。

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(創世記5:24)

2、御言葉(通路の法則)

 神は霊(意識)ですから、すべてのことに通じています。神の意識(思考)と人の意識(思考)とは、天と地の差があります(イザヤ55:8、9)。従って神の御ことばを人間の水準にあわせて、その立場に合うように具体化されるべきである。
 このような神の宇宙、全能意識が時間、空間の中にあって、行動で形体化されるためには、御言葉が人となって来られたイエス・キリストを通してだけ可能です。
 意識とは、人格(霊)と人格(霊)の交わりであり、ことばにより伝えられます。文字はことばの記号にすぎません。そういうわけで、霊の働きがない文字(形式)だけで構成されている神のみことばはありえません(競灰螢鵐3:6)。
 パウロの書簡は、文字で書かれた手紙ではなく、コリントの教会員たちの心と霊に刻まれたキリストのいのち(御霊)でした。

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、霊によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(競灰螢鵐3:2〜3)

 旧約時代には、神の天使(御使い)を無視したソドムの人たちや(創世記19:10〜11)、神の油注ぎを受けた僕たちのことばを無視した人たちが全部滅びました(民数記16:31〜35)。主がこられた以後は、主の御ことば無視し、ユダヤ教神学を守ることに熱中した人たちはみな、滅びるほかありませんでした(マタイ23:15〜27)。
 また、教会時代においては、自己の命と地にある肢体(教会)を連結する使徒(牧師)たちに対して無視し、敵対する者たちは滅亡するほかなかったのです(エペソ2:20、競謄皀3:8〜9、黙示録2:14〜16)。
 今日においても、自分の聖書知識だけを握って正しいと考え、主が建てられた僕(牧師達)を通して与えられる御ことばを受けない人たちは、まっすぐに信仰が育ちません(ローマ2:5)。
 神と人の間をつなぐいのちの元になる御ことばは、必ず神が用いられる使者(僕)達を通して伝えられます。これが教会です。信じていない人たちが伝道されることも同様です。伝道は伝道のチラシによってではなく、必ず遣わされる人たちによって、伝えられるのです(ローマ10:11〜15)。神の国は御ことば関係をもっている人たちの連結した共同体である。

次回に続く・・・
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 08:29 | - | - | - |

愛の工学「愛に至る階段(意識指数と運動指数)」

 天と地は、神自らが願われ、神を愛する子供達を造られるための神の宇宙工場です。
 神は天と地を造り、天のすべての形体と地のすべての物体が、内なる人と外なる人に関連をもつように造られています。

ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてがあなたがたのものです。(汽灰螢鵐3:21〜22)

しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。(汽灰螢鵐2:6〜7)


 地と地にあるすべてのものは、人に客観的な体(外なる人)を着せてあげるための神の計画のもとに造られました。地の変形である植物を造られたのは、人の体の中に動物的な要素、すなわち排泄し、成長し、繁栄するための要素を供給するための神の知恵でした。
 人間に内なる人と外なる人があるようにされたのは、内なる人は霊の世界と通じ、外なる人は体の運動を通して地のものを形体化させるためです。そればかりでなく、それを意識して、自己を意識し、もっと高い意識の段階に成長するための神の知恵でした。
 ですから、人は神と隣人を愛することによって、完全な人格(神の似姿)に至るようになるのです。

私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたは私の友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。私はあなたがたを友と呼びました。何故なら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:12〜15)

 神が人の上に悪魔(堕落天使)を置かれた理由は、神の恵みと御ことばがなければ、人間自体は悪魔の誘惑を受け、反形体と反意識の相手に落ち込むほかないということを見せるためです。
 故に、神に背いた堕落した天使と自我のためにだけ生きる人はみんな反形体、反意識の現場である火の池、地獄に投げ込まれることになっています。

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ、おまえたちは、私が空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていた時にも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であった時にも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」
 そのとき、彼らも答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、おまえ達に告げます。おまえ達が、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、私にしなかったのです。」こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(マタイ25:41〜46)


 神が天使を用いる僕と働き手を造られた理由は、人をも天使のように神の働きをすることによって、神の栄光と尊厳を体験(意識)し、享受できるように形体化させるためでした。ですから、神の御ことばは、人を通し働くようにされ、神の子としてすべての栄光、権威を享有するように造られています。

すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また、人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で、一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん食卓に着く人でしょう。しかし、私は、あなたがたのうちにあって、給仕する者のようにしています。けれども、あなたがたこそ、私のさまざまの試練の時にも、私について来てくれた人たちです。私の父が私に王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国で私の食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。(ルカ22:25〜30)

次回に続く・・・
 
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:35 | - | - | - |

愛の工学「地の摂理」

 天のすべてのことは、霊によって形体を成しています。例えば、夢の中で服を着たり、手に何かを持ったとしても、それは現実に成されたのではなく、全くみな意識(霊)によってなされています。
 霊の世界で、形体を変化させているのは、エネルギーではなく、"ことば"です。"ことば"は思考を伝える通路です。ですから、霊の世界では、"ことば"によってすべてが変わります。
 このように"ことば"で霊の通路を開き、霊の形体を変化させるのが"信仰"です。信仰は御ことばを聞く事から始まります(ローマ10:17)。"ことば"は人に思考を与え、思考が積まれ、行動をおこすようにします。これで、物質環境が変わり、その体験により、意識に変化をもたらします。
 それでは、天の下部構造なる地の摂理を考察して見ましょう。前にも、話をしましたように、地はすべてが運動力の法則(エネルギー不滅の法則)からなっています。運動力の法則とは、時間、空間と密接に関係する法則であります。時間のない運動はありませんし、空間のない運動は不可能です。また、時間のない空間はありえないし、空間のない運動はありません。従って、時間と空間は概念上の名称であり、現実に、時間、空間は運動力と関係して存在します。
 自然科学は、時間、空間、運動量により、すべての存在を計算し、表現します。見える世界は物質により成り、物質を構成している構成要素のひとつが運動量です。この運動量を数字であらわしたのが数学であり、科学は全部数字で解明しています。物質が数学の法則により、構成されているのではなく、人間が思考の中で、数字の概念をもって、理解しているのです。
 聖書は、この宇宙万物が神の御ことばにより成っていると言っています(へブル11:3)。この世のすべてのエネルギー(運動力)は全部神のみことばから来たのである(へブル4:12)。
 そして、神の御ことば(運動力)により、万物を保っておられます(へブル1:3)。この世のすべての形態は種類別に区別ができます。それは神が地を創造される時、時間と、御言葉(運動力)でその順序に従って創造されたからです(創世記1:21)。
 ですから、地のものすべてが、御ことば(運動力)により成立しています。地はすべての運動力が始まる始発点です。植物、動物、人の体のエネルギー(運動力)はすべて土からきています。
 鉱物界、植物界、動物界、人間界はエネルギー(運動力)の量(差)で区別することができます。
 土が重力的なエネルギー(運動力)であるというなら、植物は地を根拠とした環境のエネルギー(運動力)であり、動物は地と植物を根拠とした摂取、排泄のためのエネルギー(運動力)である。人の体は本能的運動力と霊の事を意識し、形体化する運動力の両方で生きています。
 つまり、人の運動力は周囲の環境による物理的エネルギーだけで左右されているのではありません。天からの霊(意識)による霊的エネルギーによって生きています。地上のすべての物体はエネルギーの変化によって、その形体が変化するようにできています。人の体の運動力は意識(体験)の変化によって、不変的な霊の段階を超えられるようになっています。
 もう一度言います。人の体は始め土の状態で始まりますが、体験を通して、意識の変化をもたらし、植物段階、動物段階、人間段階を超え、天使、神の似姿まで成長するようになっています。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は一つ一つの部分がその力量にふさわしく、働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4:15〜16)

 地にあって、植物、動物を通して、運動力が人のからだに伝えられるまで、その段階もみんな神のみことばの統制を受けるようになっています。

あなた方のうち誰が、心配したからと言って、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:27)

次回に続く・・・
  
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:06 | - | - | - |

愛の工学「神の摂理」3、空中にサタンがいることを神が許された理由(誘惑と試練の意味)2

 神の愛は、私たち聖徒を試み、訓練するための愛であって、人生そのものが神の愛の計画です。ですから、聖徒はこの試練の中においても、感謝し、それを喜んで受けるようにすることです。

私の兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということが、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなた方は、何一つ欠けたところのない成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ1:2〜4)

それゆえに、わたし達は、この世の誘惑により、失敗した時、それが神の御旨であると合理化をしたらだめです。神は絶対に私たちを誘惑して倒すような方でないからです。誘惑と失敗は私たち自身が持っている欲望を通してサタンからくるのです。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。誰でも誘惑にあった時、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのでって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父は御こころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。(ヤコブ1:12〜18)

 この世で起こるすべての事は神の許しの下に起こります。神は選んだ子供たちが、この愛の試練を通して完全になるようにする目的を持っておられるのです。神は聖徒たちを、耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさらず、また脱出の道も下さいます(汽灰螢鵐10:13)。
 故に神の愛を絶対的に確信する時、私たちはこの世のどんなことにも勝つことができます。

神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座につき、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、わたし達は1日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、わたし達は、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:33〜39)

 皆さん、この世で起こる部分的なことを見ないで、天と地を通して導く神の愛の完全さをみましょう。私たちは艱難の中にあっても、喜び、楽しむことができます。

そればかりでなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちが弱かった時、キリストは定められた時に、不敬虚な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:3〜8)

 神の愛に対する絶対的な確信は、すべてを忍耐し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてに耐えることができるのです(汽灰螢鵐13:7)。こういうわけで、天の上におられる神は、地上の愛の構造を通して神を愛することを証明した時、神に対する愛の中にあってこの世の誘惑に打ち勝った時、その愛の行動全部が益となるように、善(愛)を成就するようにしてくださいます(ローマ8:28)。
 この世から、人たちが持って行くものは、神に対する愛しかありません。その他のものは、みんな消えてなくなるようになっています(汽灰螢鵐13:8)。故にどんな賜物、力も神に対する愛がなければ、無になります。神と隣人に対する愛の記録が聖書であり、神の御ことばのすべてです(ルカ10:26〜28)。

次回に続く・・・
 
  
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 11:44 | - | - | - |

愛の工学「神の摂理」3、空中にサタンがいることを神が許された理由(誘惑と試練の意味)1

 神は神を愛する愛の相手を鍛えて真の愛を持つようにするため、神の霊とは反対の霊たち、つまりサタンを置かれたのです。それが神の摂理です。天使もサタンも同じく被造物です。お互いに反対の働きをする霊です。
 神は人が、自ら、意志をもって、他の被造物よりも神を愛するかどうかを試すためにサタンを天の第1の層(第1の天)、人よりも上の方に置かれました。サタンは神と人との間の霊的な関係を断ち、人を通して自身が主体となって、この世の事、つまり、肉の欲など、この世の満足だけを追求するようにして、神に背くように誘惑しました(汽茱魯2:15〜17)。
 この世に生きている人々は、神の特別な救いの恵み、即ちサタンの勢力(死の構成)を滅ぼし、私たちを贖われた神の恵みがなければ、誰もがこの死の権威から抜け出ることができなかったのです。

私は、私のうち、すなわち、私の肉の内に善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の内に住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の体の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、体の中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。私は本当にみじめな人間です。誰がこの死の、体から、私を救いだしてくれるのでしょうか。(ローマ7:18〜24)

 サタンの勢力を滅ぼし、私たちを救い、贖われた神の力があります。しかし、私たちは自然に救いに至るのではありません。何故なら、神がこの世に人を住まわせている理由は、御自身の御計画に従って、神が愛する相手を創造されたという御旨があるからです(ローマ8:28)。
 というわけで、救われた聖徒であると言っても、肉の体をまとっている限り、サタンの誘惑と自己の肉による誘惑を避けることはできません。誘惑に対抗して勝つことです。これが善なる戦いであり、霊的戦いです。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

 一般的に、聖霊に満たされ、力を受けると、全然誘惑がなくなり、無罪の状態になると誤解している傾向があります。けれども、霊的原理から察して見ると、そんな境地は肉体を脱ぎ、復活した後には可能でありますが、現在生きている聖徒には、何時も肉の誘惑と世の中での圧迫(迫害)があるようになっています(競灰螢鵐4:7〜10)。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虚に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(競謄皀3:12)

 その代表的な聖書の話が他ならず、ヨブの話です。ヨブは試練を通して、この世の環境を通して攻撃するサタンのすべての誘惑を乗り越えました。ヨブの中において、神とサタンはヨブの愛をテストしたのです。神はサタンを用いてヨブの愛を訓練したのです(ヨブ2:4〜6)。
 サタンはヨブの回りにあるこの世の物をすべて取り去りました。しかし、ヨブのいのち、つまりヨブの愛だけは取り去ることができませんでした。神を愛することによって、この世の物をすべて捨て去ることが、私たち聖徒の基準線、基本です。

  そういうわけで、あなたがたは誰でも、自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。(ルカ4:33)

 アブラハムも財産、環境、親戚、過去を捨て、また自分の分身である息子イサクまで捧げることにより、この世よりも神を愛していることを証明しました。

  仰せられた。「これは主の御告げである。私は自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増しくわえよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ちとるであろう。(創世記22:16、17)

次回に続く・・・
          
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 11:28 | - | - | - |

愛の工学「神の摂理」2、この世の神(悪魔)

 聖霊は、天使ら、神が用いられる御ことばの働き手を通して、人々に御言葉を伝えます。ですから、神の祝福は神がおのおのの上に建てられた御ことばを伝える人、つまり、神の僕、油注がれた者、神の神意識を受けた方を通して受けます。故にこの方たちを無視して自己の考えに従って生きると、必ず悪魔に飲みこまれます。
 第1の天である空中にあって、権威を握っている悪魔は、どんな働きをする存在でしょうか?悪魔もことば(考え)を人に伝えます。悪魔は神と人との中を断ち、地の意識(思い、考え)を人に伝えます。これがこの世の神です(ピリピ3:19)。

  しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)

 エデンの園でサタンは神の御ことばに対抗して蛇を用いてエバを誘惑したように、サタンは人が意識の低い被造物に従うようにし、その低い意識を受け入れるようにします(創世記3:4〜6)。人を通して祝福して下さる神を愛さず(創世記1:28、2:3)、自己の努力でこの世のものを得ることにより、自己の栄光(自己意識)を得るように仕向けます(創世記3:6、ヨハネ5:44)。
 サタンは人を通して、五感から入ってくる感覚を上部構造(天の仕組み)から、下部構想(地の仕組み)に動くようにすることにより、内なる人(霊)を無いようにして、人を被造物の中で最も浅ましい位置に落ち込むようにします(ピリピ3:19)。

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、這うもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにその体をはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン(ローマ1:22〜25)

 人は、神を敬拝し、その方を愛して、御ことばを守る時、初めてそれが霊的な体験になり、永遠な喜びと祝福になります(ヨハネ14:23)。悪魔は人に真理ではない、偽りのものを、私たちの思考の中に入れ、偽りの自己意識を造ります。これが、つまり神の御ことばが入らない理由です。
 ですから、私たちは、神の御言葉を、神から祝福された僕を通して教えられ、訓練されて整えられるようになるべきなのです。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です(汽謄皀3:16)。

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(へブル13:7)


 聖徒は、指導者と権威者に従順に従わなければなりません(へブル13:17)。このような御言葉による従順のしくみが教会であり、神の国である。しかし、サタンが与えるこの世の思考は誰から教えられるとか、訓練を受ける必要なく、直接五感によって、入ってきます(ヨハネ13:20、使徒5:3)。それ故に、それを実行することは、何の負担も感じることがなく、かえって内からすぐに欲望が湧いてきて、ただちに行動するようになるのです(創世記3:6〜7)。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにしてふたりの目は開かれ、それで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(創世記3:6、7)

 この世の思考はそれを行った後で、問題になります。その行動の瞬間が過ぎると、真の自己意識、神の御ことばを否んだ暗闇と虚無、空虚の自意識が永遠に続けられます。神の御ことばが降る前には、この地は混沌としており、形もなく、暗闇の深淵だけでした。ですから、悪魔の瞬間的な偽りの体験が過ぎると、永遠に虚無と空虚と混沌だけが残ります(汽茱魯2:17)。
 人がこの虚無と混沌から、抜けようともがけばもがくほど、この世を求めるようになり、結局、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すと死を生みます。(ヤコブ1:15)
 ですから、神の僕も、父母たちも、聖徒や子供達を主の教育と訓戒によって育てなければなりません(黙示録3:20、エペソ6:4)。
 人は、自己の努力とか、思考によって神に直接出会うことは不可能ですが、御言葉の通路を通してだけ祝福を受けることができます。聖徒はいつでも、上を仰いで、御ことばを受けて、その御ことばによって生きるならば、地上にいる天使の役割をして生きることができます。

次回に続く・・・
posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:35 | - | - | - |