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愛の工学「地上から天上まで」(2)

聖徒は、

”塢要な行動(運動、時間、空間)を捨てること、心の変化を受けるように、神の善なる御旨を求めるべきである(ローマ12:2、3)

∪仕未錬鬼兇砲△討呂泙詈質欲、地位、名誉、社会活動を離れ、ひとえに内なる人が、神と交わることを唯一の宝とすることである。外側に向かう意識を"内"に導きいれることが、御ことばの黙想であり、信仰の祈りである(詩篇1:1〜3)。

2、環境運動(エネルギー)

 植物は全く、環境運動によって生きるものです。植物は環境を選ぶ力がないので、与えられた環境の中で、適応して生きます。それ故に植物が生きていくためには、環境に対する客観的な情報(感覚)が必要であり、その情報に従って与えられた環境にあって生きるほかありません。

 人間の意識の成長段階において、胎児期の環境意識の段階である胎児は母の胎の中で生きています。胎児は自ら、選ぶ力がないので、与えられた条件に従って生きていきます。つまり、与えられた環境母体が与える条件を離れることができない人は、胎児期以後にも引き続き環境の意識から脱することができないのです。被造物は神から与えられた環境の中で生きて行くほかないためです。

 環境の意識とは、環境を客観的に捉え、絶対的に従う意識である。植物ばかりでなく、動物、人間など、すべての被造物(天使、悪魔)がみんな環境意識を持っていますが、その意識の程度が異なります。それ故に神は人間に魂の意識、つまり環境に対する意識を与えました。それが意識、感情、意志です。特別に知的な意識が環境意識であると言えます。

 知的な人は、真理(客観的な事実)に対して敏感です。また、主体的な理解、意志的な行動をする環境にも敏感です。従って与えられた状況はよく把握するけれども、主観的な理解、意志的な行動に対しては弱いのです。

 意志の弱い人は運動力のない物質(命のない物質)を相手にするのが適しています。大体において、このような事がこの世の知恵です。この世的な知恵とは、物質や環境を通して、与えられたことだけを見て、それだけを追及するのです。

 神はこの世の知恵を愚かなものにされるのです(汽灰螢鵐1:20〜21)。

 今日、科学的な知識は殆ど、物質に対する環境意識です。それ故に人間の意志とか情緒よりは、客観的な環境(事実)にもっと多くの比重を置いています。それは、人間が物質の環境に非常に依存しているからです。

 実際のところ、このような思考形式は、はなはだ合理的に見えますが、人を人間以下、動物以下に転落させることです。

 人間が環境と物質に必要以上に意識し、その支配を受けるようにしたのが、つまり物質主義的な思考です。人が環境にばかりに拠り頼んで物質の環境に所属された故に、今の人の知識は物質主義(水準)に堕落したのです。

 

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこの方、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにその体をはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1:20〜25)

 

 神は信仰の先祖、アブラハムにすでに与えられている環境を離れ、全然知らない、新しい環境、つまりカナンに行くように命じられました(創世記12:1)。

 

信仰によってアブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、これに従い、どこに行くのかを知らないで出て行きました。(へブル11:8)

 

 我が国の人たちは、もともと農耕民族ですから、環境に対する思いが大変強いです。ですから、家とか土地、故郷に対する意識が強いのです。神の形象、愛の形象を成すように、召命を受けた聖徒は当然このような環境意識を脱出して、天にある本当の故郷を慕わねばなりません。

 

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいのものであることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出てきた土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかも知れません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は彼らのために都を準備されていたからです。(へブル11:13〜16)

 

 今日、教会では建物の大きさとか華やかさであることを、牧会の成功の基準にしています。明らかに環境意識の現れです。主は教会の建物の大きさ、華やかさに重点を置かれませんでした(マタイ24:1,2)。

 事実、初代教会は環境意識を象徴する建物、場所さえもありませんでした。彼らは、天の力だけ仰ぎ見たのです。彼らが心を合わせて専念したのは、お祈りであったし、祈りによって上からの力を求めたのでした(使徒1:14、汽灰螢鵐2:4、5)。

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 09:51 | - | - | - |

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