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愛の工学「地上から天上まで」

7.全能の神の意識(愛)

 御言葉の神が、ご自身を100%無にして完全な人(100%人間)になられ、この世に来られました。神の僕としての形を取られ、死に至るまで、御言葉に服従されることにより、神と人に対しての愛を完成された方です。その方がキリスト・イエスです。

 

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちに見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって、現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:5〜11)

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

 

 それでは、完全になることは、どのようにして可能になるのでしょうか?無論、愛を通して完全になれるのです。

 

神は、私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)

 

 つまり、聖化され、傷のない、キリストの似姿になるまで、人間的努力を続けるのではなく、愛を通してだけ可能になるのです。その愛とは、即ち神の御言葉に従って、神を愛し、隣人を愛することです。

 

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生、律法の中で、たいせつな戒めはでれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが大切な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:35〜40)

 

 聖書を通して流れている主題は愛です。神は愛です。人も愛の現れとして造られました。ですから、聖徒はこの愛の形象(神の形象)を成すために、愛をもって隣人に仕え、御霊と御言葉によって変えられなければなりません(ヨハネ3:5)。パウロは第一コリント13章において、私たちが成さねばならないことを、イエスの形象を通して語っています。

 

なぜなら、神は、あらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29)

 

 旧約聖書は神の愛の約束です。4つの福音書には、神の愛の実現が書かれてあり、書簡は私たちが愛の生活をするための方法が書かれています(申命記7:8、ヨハネ3:16、13:34、1コリント13章)。そして、私たちのすべての力と栄光の源は、私たちの”内”におられるキリストです(エペソ1:20〜22、汽灰螢鵐硲押В掘腺検法

 

神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(汽灰螢鵐硲隠機В隠亜

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 09:26 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」

 教会は、この世ですべてのエネルギーを自己のために全部、投資してお金を得、その中からいくらかのお金を献金して肩書と支配力だけを得ようとする、金持ちを絶対立ててはいけません(マタイ19:23〜24)。

 かえって、教会はこの世では目立たない人たち、つまり運動力を発揮できない貧しい者、病んでいる者、年寄り、失業者、学歴などのない人たちが、神の御言葉に従って、お祈りし、彼らの運動力が神の国拡張のために、力を尽くす時、驚くほどの奇蹟と働きが現れるようになっています。多くのことを習得し、成功した人は、その知識のために多忙すぎて、神の御言葉に服従して、働く余裕がありません。これが、つまり、心を太らせた者です(ヤコブ5:5)。ですから、神は謙遜で無学な者を用いるのです(マタイ19:23)。

 

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高いものも多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前で、誰も誇らせないためです。(汽灰螢鵐硲院В横供腺横后

 

 そういうわけで、教会では、その人が聖書の知識があり、いくら賜物を受けていると言っても、”働き”がなかったらその人自身にとっても、教会の為にも役にたたない者であり、これが悪いなまけもの”僕”です。

 

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪い怠け者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ25:24〜30)

 

 それゆえ、パウロは誰よりも、働く者とされた神の恵みに感謝したのです(汽灰螢鵐硲隠機В隠亜法使命意識は、人間のどんな意識よりも強いのです。その理由は、使命感は、神を愛し、人を愛するところから来る為です。愛は、最高の意識です。そして、聖霊の導きによって、神の御言葉を通して入ってきます。ですから、聖霊の導きによって、神と人に仕える人が、最も、高い意識を持つことになります。

 今日の教会において、聖霊の感動なく、人を愛する心もなく、神学校で習った宗教プログラムを持って運営されています。そして、一ヶ月いくらかの報酬を貰って、自己の益を考えながら働く宗教技士によって運営されている現実を悲しまないではいられません。このような技術者たちは、自身の演技を、特に現すため、益々人為的な施設と、自身の演技を助ける助演者を雇うようになります。宗教の観衆らはいくらかのお金を支払って、演技を観て瞬間的な自己の慰めとして受け取っています。

 教会では、イエスによって働く”イエス工場”でなく、宗教劇場、宗教食堂、娯楽場、になっている理由は、人を創造した神の愛の摂理を正しく認識していないからです。

 

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(競灰螢鵐硲機В隠粥■隠機

愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私がいない今は、なおさら恐れおののいて、自分の救いを達成してください。(ピリピ2:12)

長老たちによる按手を受けた時、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの努めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。(汽謄皀藤粥В隠粥腺隠供

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 08:34 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」

6.天使の意識(使命感)

 人の運動は自意識を作ります。ですから、人が誰の言葉によって、動いているかによってそのことばが自分の体験になり、それを意識するようになっています。

 人が神の御言葉に従って行動する時、その御言葉が、自己の体験(意識)になるようになっています。それがつまり、使命意識です。神が御言葉を下さって、人に仕事をさせるのは、人にまことの神の意識を分かち与えようとされる絶対的な愛の摂理から成るのです(エペソ1:4〜6)。

 夫婦についても、始めはお互いに異なった意見を持っていたとしても、一緒に生活するうちに、分かり合えるようになります。ですから、夫婦の愛も、始めから生じるのではなく、一緒に生活しながら、生じるようになります。韓国の糟糠(そうこう)の妻という言葉があります。意味は、一緒に貧乏や苦労を共にしてきた妻は、後に金持ちになって得た若い愛人とは、愛の意識が比較できないということです。箴言にも、女性の美しさは、外見の美しさではなく、そのエネルギーにあると言っています(箴言31:10〜31)。

 

麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。(箴言31:30、31)

 

 イエス様の時代にも、個人的な欲求を解決しようと、主に従った群れが数万名になっていましたが、主はご自身を彼らにお任せにならなかったのです。その理由は彼らの中に神の運動力(使命意識)がないことを知っておられたからです。

 

イエスが、過ぎ越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人の内にあるものを知っておられたので、人について誰の証言も必要とされなかったからである。(ヨハネ2:23〜25)

 

ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。(ヨハネ5:42)

 

 一方、弟子たちは、誰一人も病を癒されたとか、個人的な欲求によって主に従ったのではありません。彼らは、仕事、家族、自身のすべてを捨て、主に従ったのです。イエスと寝食を共にし、行動したのです。主は弟子たちに、自身の使命と栄光を彼らに下さったのです(ヨハネ17:18)。

 

すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」(ルカ18:28)

 

けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、私について来てくれた人たちです。私の父が私に王権を与えて下さったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、私の国で私の食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。(ルカ22:28〜30)

 

 それで、使徒パウロは、自身が神と一緒に働く協力者であると言ったのです(汽灰螢鵐硲魁В后法

 今日、教会にあっては、主が建てられた使徒の教えに従って行動しないで(使徒2:42)、かえって、牧師たちが、教会員(羊)たちに耳を傾け、引っ張られているのが現実です。ですから、教会員たちの意識の中に使命意識が生じる余裕もなく、動けば動くほど、自身の名誉欲、虚栄だけ生じるのです。牧師がその欲求にすべて応答できないと、排斥を受けるようになります。

 これが、教会の霊的成長を阻んでいるのです。教会が大きいから霊的に成長しているのでありません。主の僕の訓戒に従って、教会員たちが、従うか、従わないかが根本的な問題です。

 

今、私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神にでしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私が今なお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストの僕とは言えません。(ガラテヤ1:10)

 

 もう一つの問題は、教会員たちが、使命によって働かないで、祈りだけに専念して、神秘的な体験だけを重要視する時、教会は必ず問題が起きます。霊的な体験も良いけれども、使徒の言葉に従って動かないで、話だけで自分を現そうとするサタンの誘惑にかかりやすいのです。いくら霊的な体験があるにしても、すべての教会は必ず使徒と預言者の上に立てられることである(エペソ2:20)。

 

あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびを騙し取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と節によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ2:18、19)

 

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ2:20)

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 14:06 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」

5、悪魔の意識(抑圧される霊、抑圧する霊、孤独の霊)

 悪魔は、天使と同様、霊です。神に敵対し、天から追放された天に住めない霊です。ですから、悪魔が支配する領域は空中とこの世です(エペソ2:1〜2)。

 万物がみな、神の御言葉にあって保たれているのです。すべての被造物はすべてが自分の位置、自分の場所を与えられています。悪魔は自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てたみ使いたちです(ユダ1:6)。結局、悪魔は自分だけしか意識するほかない、霊的存在です。

 

イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。」(ルカ10:18

自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。真っ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。(ユダ1:13)

 

 それゆえに、悪魔には神から与えられた物がないばかりか、神が人に祝福として渡された人の領域、つまり地上で、人の思いの中に働いて、誘惑し、恐れを抱かせて支配しているだけです。

 

また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」(ルカ4:5、6)

 

 悪魔は自分の物がないので、人の中に偽りの"意識ー霊"を入れ、錯覚を与えるのです。悪魔は偽り者であり、また偽りの父であるからです(ヨハネ8:44)。

 悪魔が人に与える第1の錯覚は「私が。私が、何かをすることができる。」と考えるようにすることです(イザヤ14:12〜15)。実際のところ、悪魔と人が、「私」と考える根拠になる意識と運動力は、すべて神からきたのです。悪魔も神の御旨に従って、一定の期間、地上の物を誘惑する権威を受けているだけです(ヨブ1:12、黙示録13:5)。

 人の体は土により成っていますが、その体が動いて、回りのすべてのことを意識することができる力を持っているのは、神が人を「生きる魂」に作られたからです(創世記2:7)。

 このような事を知らずに、自分の力で出来ると思っている堕落した人の心(意識)は万物の中で、何よりも陰険なものになってしまったのです(エレミヤ17:9)というわけで、パウロは自分の中にあるのは、罪だと告白したのです。

 

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。誰が、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9)

 

私は、私のうち、すなわち、私の肉の内に善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない善を行っています。(ローマ7:18、19)

 

 このように、人は悪魔に騙され、自分自身も知らないうちに、互いに騙したり、騙されたりしています(競謄皀3:13)神を離れた人間のすべての思いと行動は全部が、悪魔の道具になり、神の御わざを、歪曲して行なうようになったのです。

 

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1:21〜25)

 

 このような事実を知っておられる方は、ひとえに主お一人です。それで主はご自身を人にお任せにならなかったのです(ヨハネ2:24〜25)。ですから、まことの命である、キリストが人の"内"に入られる時に、人は救いに至る知恵が与えられるのです(競謄皀3:15)。

 悪魔は人が自分自身を誤って意識するように、するばかりでなく、神と世の中を全部あべこべに見るようにします。悪魔が人から盗んだ領域はこの世です。ですから、人をこの世だけ注目するように誘惑します。そして、人に目で見える物質の世界がすべてであるかのように、思わせるのです。これが肉なのです。そして、肉の思いは神に対して反抗するものだからです(ローマ8:6、7)。

 もし、人が霊の世界を悟っていると言っても、それは錯覚であり、悪魔がこの世をすべて治めているのです。この世の王は悪魔です(ヨハネ16:11)。悪魔の意識が下の方に傾いているので、悪魔と悪魔は自分の下にある地と人の領域の中に入り、場所を占領しようと躍起になっているのです(マタイ8:31、32)。

 このように、悪魔に押されている人は、自分以外の事を意識する余裕を持てないのです。霊が圧迫を受けている人はどんなに、良いものを見、食べても、うっとうしくなるばかりです。人の体と環境は全部、人の意識と運動力によって伝えられる通路です。人の体も、環境も、正常にその運動力が伝えられないと、次第にその形体が薄くなります。これが病であり、死です。

 悪魔は人を自分の内に入れようと、孤独になるようにしむけます。

 

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。その時に人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を汚す者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虚であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人を避けなさい。(競謄皀3:1〜5)

 

 悪魔は、神から委ねられた仕事がないので、自分よりも弱い霊的な存在を暴力と恐怖で、押さえつけ、自己の権威の元に置くのです。これがこの世の国の栄光です。

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 17:11 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」(4ー2)

 聖徒が成長するためには、神が立てられた僕達のことば(聖書)を習うだけでなく、従順に従って、祈りを通して運動力と思考を新しくし、行動においては、形体化(体験)せねばなりません。下の人には、神の御ことばにより、訓戒し、祝福して守るようにする。もし、誤っていたら、赦し代わりに代価を払う(損をうけても)ことである(ガラテヤ6:6、汽謄汽蹈縫5:14〜15)。

 

そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(汽撻謄5:1〜6)

 

 上下の人間関係も、御言葉の関係がないところには、神が働かれません。それが、つまり、世の中です。神が立てられた人間関係、御言葉関係にあって、愛を成就する所が教会、社会(職場)、です。教会、家庭、職場は上下の御言葉関係を通して、霊的成長が維持されるのです。上下の関係がこわれると、これ以上の霊の成長はなくなります。これが群れつまり群衆です。群れとは、各自が自己の欲望で動く集団です。この群れの運動力を制度として組織したのが、世の中の制度です。それ故に、世の中の制度には、まことに整った人格成長があり得ません。

 神の愛は、上から下に、流れる愛であり、御言葉を通しての"教訓ー戒め(運動力)"の愛であり、各自が神から受けた位置を通して自我を無にする愛を通してだけ、現実化するのです。聖徒は自己の欲望に従って、あちこちに群れを作り、行き来する群衆からは離れることです。

 

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。(創世記11:1〜5)

 

 天と地が上部構造と下部構造になっているように、人の体も内なる人と外なる人からなっています。内なる人が上部構造に(天のしくみ)に、外なる人が下部構造(地のしくみ)に合致します。ですから、内なる人は天から降る意識(ことば)をもって、自分自身を満たします。そして祈りを通して外なる人を服従(運動)させることにより、形体化、つまり神の御言葉を実際に体験(意識)するようになります。

 このように、神が私たちに与えて下さった天の御国(教会、家庭、職場)には、必ず人によって構成される上部構造(天の通路になる方)と下部構造(地の運動になる人)とから構成されています。牧会者にとっては、上部構造が復活された主であり、下部構造が自分自身である。

 ですから、牧会者は自己の下部構造である教会員たちを監視し、治めることだけを考えないで、まず天の御国(上の方)を求め、自分自身を無にして、主に従い(汽灰螢鵐9:27)、その次に主の御旨に従って自己の下部構造である羊の群れを導かねばなりません(汽撻謄5:1〜4)。

 家庭でも、妻は家庭の上部構造に当たる主人(神の型)に従い、その恵み(主人を通して受ける祝福)を持って、子どもたちを神の御言葉にあって、訓戒し養育するのです(エペソ6:1〜4)。

 このような御ことばを通しての上下構造が『体』といいます。家庭も、教会もみな体です(ローマ12:2〜3、創世記2:24〜25、汽灰螢鵐12:13)。

 神から与えられた体は人が人となる構造(天の御国)であり、この体を建て上げないと各々の人は獣のように滅びるほかありません。

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:38 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」(4)

4、人の運動と意識

 実際、鉱物界、植物界は運動するだけであって、主体的な意識はありません。ただ、環境に対する主体的運動力だけです。人間だけが、自分の人格にあって、運動力と意識が互いに対立する存在です。

 前にも、述べたように、人は、ことばを受け、自分自身の体で行動して、意識を作ることができるようになっています。人が神の御言葉を受けるだけでは、体験になりません。その御言葉を受け、思いで満たして、祈りを通して運動力を変化させ、実行する時、体験(意識)することによって、神を知るようになるのです。

 しかし、これは誤っている仮定である。前に述べたように、人の意識自体が、体を通して"意識(言葉)ー運動(体)"の形式を持っています。ですから、物質から構成されている肉体が眠っている状態であっても、見る夢の状態とか、霊(幻)の状態にあっても人は運動(体)の形式でそれを体験します。繰り返しますが、夢とか幻(異相)には、実際に物質から構成されている体に関係なく、運動する形式で、それを体験するのです。使徒パウロも第3の天に引き上げられた時、自分の意識が、肉体のままであったか、肉体を離れてあったか知らないと言っています(競灰螢鵐12:1〜4)。

 そういうわけで、人はこの世で、物質により構成されている肉体を持っていますが、霊の世界とか、死後の世界にあっては霊(意識)からなる霊体を持つようになるのです。

 

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(汽灰螢鵐15:44)

 

私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをももつのです。(汽灰螢鵐15:49)

 

 単に、その体験(意識)が、この世の中(自己)の思考で働いた自分の行為(自己義)なのか?或いは、神から渡された御言葉(思考)で動いた体験、即ち恵みであるのかが、問題になります。聖書では、人がいくら自己の行為が正しいと思っていても、そんなことでは、永遠の命は受けることができないと明確に言っています。

 

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8、9)

 

 夢とか、幻の世界では、自身が選ぶことができる意識(運動力)ではなく、全然、意識(運動力)が作用しないようになっています。

 ですから、ラザロはみ使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれ、死んだ金持ちは自分ののどが渇いても、自分の指先一つも動かすことができなかったのです(ルカ16:21〜26)。

 故に、人は生きている時から、自分の意志ではなく、神の御ことば(主の御旨、父母の言葉、牧師のことばー指導者のことば)に従って、自己の意識と行動を否むべきである。

 このように、人は神から与えられた思考(言葉)と運動力(服従)を受け入れることにより、自己の意識以外の新しい体験を受け入れるようになります。これが、つまり、新生することです。

 

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない。と私が言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:5〜8)

 

 実際、天と地のすべての意識と運動力は全部、神の子となった私たちに恵みとして与えようと準備されたのです。ですから、まず神の国を求める者には"すべてのこと"を恵んでくださいます(ローマ8:32、汽謄皀6:17)。

 神は人を通して、すべてを与えるばかりでなく享受するようになさる方です。聖徒は、この宇宙の宝を価なしに、代価なしに全部を恵みにより享受するようになったのです。

 

愛する兄弟たち、だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばを持って私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。(ヤコブ1:16〜18)

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 16:56 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」(3-2)

 人類の歴史とか、個人や社会の現象を見ると、人々が放蕩し、堕落する時は、必ず、その個人、社会、国は滅亡しました。その理由は、"この者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです"(競撻謄2:12)。

 

子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよ。あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。その通り道に、迷ってはならない。彼女は多くの者を切り倒した。彼女に殺された者は数えきれない。彼女の家はよみの道、死の部屋に下って行く。(箴言7:24〜27)

 

 旧約聖書のバラムの話、ソドムとゴモラ、バアル神、サムソンの話と新約聖書の放蕩息子の話、ニコライ派の教えは、みな獣の意味の終末を予告しています(黙示録2:14〜16)。この本能運動が人の性質として現れるのが、行動的な人間像ーつまり像(Image)である。外見的には、勇敢で、男性的であるので、世の中では、英雄的な評価を受けるでしょう。しかし、神の目からみると、本能によるエネルギーにすぎません。

 人類の歴史において、戦争においての多くの英雄を出していますが、彼らは、大部分が獣の状態の征服者にすぎません。主は征服者として、この世に現れた王ではありません。ろばに乗って、平和の王としてエルサレムに入城したのです(マタイ21:5、ゼカリヤ9:9)。

 人間の意識水準から見る時、純植物的な人間、つまり知恵があり、客観性の強い人は、自然科学者、技術者、技師達です。彼らの大部分は、獣意識の領域に属する政治家、経営者に隷属して、彼らの部下として工場を運営したり、征服者の目的を達成するための技術提供者、技師達に過ぎなかったのです。

 今日にあっては、科学は神と人間のために奉仕するよりは、獣のような世の中の権力者、貪欲者たちによって、人を殺したり、神に敵対するために利用されています。ヒットラーやスターリンに武器を作って与えたのが科学者でした。彼らの欲望を満足させた者たちが、すなわち、環境を合理化する頭の良い科学者たちでした。そして、同様なことが今日においても継続されているのです。

 全体をもう一度要約してみます。

)槐重な人(実業家、軍人、政治家)が、植物的な人(学者、理論家)たちを支配する。

∨槐重な人が、獣のように弱い者を殺し、結局は自分より強い者に食われてしまう。これがこの世の生存原理です。

 

次回に続く・・・

 

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 07:28 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」(3)

3、本能の運動

動物は生きるために体を動かし、必要なものを獲って食べ、そして排泄する。地のすべての生きものは、運動によって成り立っています。すべての生きものが形を維持するためには、一定の運動量が必要です。生きものが自分の運動力によって、自分と環境を連結させるためには、一定のメカニズムが必要です。動物の環境に対するこのようなメカニズムを一般に"本能"と言っています。

 現代は、コンピューターが開発され動物の本能が理解しやすくなっています。動物の行動は、食べて排泄し、子孫を残す輪廻がすべてです。動物は自我意識がなく、単に肉体を保持しようとする運動意識だけです。

 しかし、人は行動によって自己意識を造るように成っている為に食べれば食べる程、淫乱な行動をすればする程、自己の意識を堕落させます。エバは蛇の話を聞いて、善悪の実がなる木を見ると、食べるにも、見るにも良く、賢くするというその木は、いかにも好ましく見えたのです(創世記3:6)。

 

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人は、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」(創世記3:7〜8)

 

 自己の欲望をもって行動した『意識』(体験)を"自我"と言います。自我は自分の行動によっていくらでも変わることができます。人は自分の欲望とか、欲求によって行動することにより、彼の意識は変化します。ですから、自己の欲望を中心として生きる人は、結局、時間が過ぎた時、自己の内に何も残るものがないのです。

 地球上で、一生の間、自身の欲望を全部満足させた人は、ソロモンです。しかし、彼も一生を過ごした後、世の中のすべては空であると嘆いています。

 

空の空、伝道者は言う。空の空、すべては空。(伝道の書1:2)

 

人が自分の欲望によって行動し、動物の意識、つまり獣の水準(黙示録16:2)におちて、自分より、弱い相手を押さえ支配する代価として、成功して名誉を受けている状態がすなわち、この世です。ですから、この世で成功して、名誉(この世の栄光)という意味は、低く、弱い人を押さえたという意味です。このような意識はつまり、この世の王、悪魔から受けていることです(ヨハネ16:11)。

 

今度は、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して、私を拝むなら、これを全部あなたに差しあげましょう。(マタイ4:8〜9)

 

 聖書に、この世でお金持ちの信者たちには絶対に、傲慢な心を持たないように、物質に望みを持たないように勧告し、財産は分かち合い、捧げるようにと言っています。

 

この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。(汽謄皀6:17〜19)

 

 金持ちが天国に入るのは難しいです。その理由はこの世で良い物を受けた人は金を得ることに全エネルギーを費やし、神の御言葉の入る余地が殆ど無いからです。人は何でも、その事に良い結果が出ると、もっともっとと、その事に向かって欲望がさらに増していくのです。金持ちはこの世の中で、最高のものをみな受けているから、もっと良いこと、つまり天の御国のためにエネルギーを傾ける理由が無い人たちです。

 

アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ超えて来ることもできないのです。(ルカ16:25、26)

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 07:08 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」(2)

聖徒は、

”塢要な行動(運動、時間、空間)を捨てること、心の変化を受けるように、神の善なる御旨を求めるべきである(ローマ12:2、3)

∪仕未錬鬼兇砲△討呂泙詈質欲、地位、名誉、社会活動を離れ、ひとえに内なる人が、神と交わることを唯一の宝とすることである。外側に向かう意識を"内"に導きいれることが、御ことばの黙想であり、信仰の祈りである(詩篇1:1〜3)。

2、環境運動(エネルギー)

 植物は全く、環境運動によって生きるものです。植物は環境を選ぶ力がないので、与えられた環境の中で、適応して生きます。それ故に植物が生きていくためには、環境に対する客観的な情報(感覚)が必要であり、その情報に従って与えられた環境にあって生きるほかありません。

 人間の意識の成長段階において、胎児期の環境意識の段階である胎児は母の胎の中で生きています。胎児は自ら、選ぶ力がないので、与えられた条件に従って生きていきます。つまり、与えられた環境母体が与える条件を離れることができない人は、胎児期以後にも引き続き環境の意識から脱することができないのです。被造物は神から与えられた環境の中で生きて行くほかないためです。

 環境の意識とは、環境を客観的に捉え、絶対的に従う意識である。植物ばかりでなく、動物、人間など、すべての被造物(天使、悪魔)がみんな環境意識を持っていますが、その意識の程度が異なります。それ故に神は人間に魂の意識、つまり環境に対する意識を与えました。それが意識、感情、意志です。特別に知的な意識が環境意識であると言えます。

 知的な人は、真理(客観的な事実)に対して敏感です。また、主体的な理解、意志的な行動をする環境にも敏感です。従って与えられた状況はよく把握するけれども、主観的な理解、意志的な行動に対しては弱いのです。

 意志の弱い人は運動力のない物質(命のない物質)を相手にするのが適しています。大体において、このような事がこの世の知恵です。この世的な知恵とは、物質や環境を通して、与えられたことだけを見て、それだけを追及するのです。

 神はこの世の知恵を愚かなものにされるのです(汽灰螢鵐1:20〜21)。

 今日、科学的な知識は殆ど、物質に対する環境意識です。それ故に人間の意志とか情緒よりは、客観的な環境(事実)にもっと多くの比重を置いています。それは、人間が物質の環境に非常に依存しているからです。

 実際のところ、このような思考形式は、はなはだ合理的に見えますが、人を人間以下、動物以下に転落させることです。

 人間が環境と物質に必要以上に意識し、その支配を受けるようにしたのが、つまり物質主義的な思考です。人が環境にばかりに拠り頼んで物質の環境に所属された故に、今の人の知識は物質主義(水準)に堕落したのです。

 

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこの方、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにその体をはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1:20〜25)

 

 神は信仰の先祖、アブラハムにすでに与えられている環境を離れ、全然知らない、新しい環境、つまりカナンに行くように命じられました(創世記12:1)。

 

信仰によってアブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、これに従い、どこに行くのかを知らないで出て行きました。(へブル11:8)

 

 我が国の人たちは、もともと農耕民族ですから、環境に対する思いが大変強いです。ですから、家とか土地、故郷に対する意識が強いのです。神の形象、愛の形象を成すように、召命を受けた聖徒は当然このような環境意識を脱出して、天にある本当の故郷を慕わねばなりません。

 

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいのものであることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出てきた土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかも知れません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は彼らのために都を準備されていたからです。(へブル11:13〜16)

 

 今日、教会では建物の大きさとか華やかさであることを、牧会の成功の基準にしています。明らかに環境意識の現れです。主は教会の建物の大きさ、華やかさに重点を置かれませんでした(マタイ24:1,2)。

 事実、初代教会は環境意識を象徴する建物、場所さえもありませんでした。彼らは、天の力だけ仰ぎ見たのです。彼らが心を合わせて専念したのは、お祈りであったし、祈りによって上からの力を求めたのでした(使徒1:14、汽灰螢鵐2:4、5)。

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 09:51 | - | - | - |

愛の工学「地上から天上まで」(1)

牧会の実践原理

 前にも、話しましたが、人の一生は土から始まり、天の上までに至る全宇宙的な存在であります。土は人の源である(創世記3:23)。人の体は土から作られましたが、神の息を吹き入れ命(生きものー創世記2:7)になるようにされました。

 聖霊とは、ヘブル語で"ネペスイ ハヤ・・・"を翻訳したことばで、獣も人をも、指していますが、ただ文章の文脈からみると、英語の聖書では、生物(Living Creature)、生霊(Living Soul)、生きている人格(Living Person)、信者(Living Being)等と翻訳しています。へブル語聖書によると、人は獣と等しいものであるが(詩篇73:22、競撻謄2:12)、ひとえに神の永遠な御旨によって、神の形象として造られたのです。

 もう一度言います。獣と人は同じような状態であるが、その存在が神に向かって開いているのか、地に向かって開いているのかに差があると言えます。

 

だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。(伝道の書3:21)

わたし達は、土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。(汽灰螢鵐15:49)

 

 人が地上で獣の状態を脱出して、神を仰ぐようになる始まりは、他人との出会いとを通して始まります。

 幼児は獣のように本能のかたまりでありますが、父母の愛と教育を通して、つまり高い意識(愛)を受けて自身の本能を調節し、環境の影響を受けないで、環境を自己の事として選ぶことのできる人格に成長します。故に人は他人の教育を受け環境意識、すなわち、本能から離れる事柄が、一生涯の間継続します。

 小さな子どもが、この世に生まれて、父母の愛を通して本能の状態(意識)を脱することから始まり、先生、先輩、神の人となって来られたイエス・キリストを信じるまで、同じような原理が適用されます。人は愛から意識の目が開き始め、愛を持って完全に至ります。従って、もっと高い次元の意識(人格)によって人は完全の域に達することができるのです。

 

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えられて下さった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:4〜6)

 

 それでは、これから人が一生涯の間、超えないとならない意識と運動力、成長段階を具体的に考察して見ましょう。

1、地(土)の運動力

 人間の意識と運動力の出発は地である。地はそれ自体が運動力を持って形体をなしていて、無意識でも、人に時間、空間を通して運動することができる環境を提供します。

 地は、人の体の元になったばかりでなく、それ自体がエネルギーを持っていて、人間がその上で生活することができるように時間と空間とからなる構造を持っています。地は人の体を動かしながら、意識を成長させる現場です。

 人が見えるものによってだけ動くと、人の意識が分散され、意識の水準が低くなります。つまり、見えるものに向かって時間、空間に人の運動力が分散されるだけにその意識は堕落します。その反対に見えないものに向かって、彼の運動力が集中する時、意識の水準は高くなります。運動力が繰り返されて、集中することを練習、訓練といいます。

 物質は時間、空間にあって限りなく拡張されるほど、意識は分散されます。物質の世界にあって宇宙は拡大な時間、空間の拡張である。植物、動物、人、天使、神により意識の程度が高くなる程、時間、空間、運動力が"内(一点)"に集まって、時間、空間を完全に超えられれば、神の全能に到達します。神はすべての時間、空間、運動力を全く、自己の内に含んでおられます。

 人には、外なる人と内なる人があります。内なる人は、時間、空間にあって運動力が限りなく広がっていく人です。外なる人は外側のものを自己の中心に集め、周囲のものを何でも自己のものとしてしまう人です。従って、時間を過去、現在、未来と分けることは、意識が外に分散する原理であります。また、空間において私の物、あなたの物と区別する事も、意識が分散することであります。体の行ないにより判断する方法と規則等もみな外なる人の産物であります(エペソ2:9)。

 神は、外なる人を見るのではなく、内なる人を見られます(ローマ1:19、競灰螢鵐4:18)。

 

次回に続く・・・

posted by: 神の小羊 | 霊性牧会 | 08:18 | - | - | - |